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自己愛性パーソナリティ障害の功罪(DV加害者についての一考察) 

世界には多くの人が生きている。その中で一定数、本来なら守るべき身近なひとへ、心理的もしくは身体的な虐待を加える人が、存在する。
DVやモラル・ハラスメントをおこなう人とは、いったい何故そんな残虐な行為をできるのか。彼らの心理とは? この悪辣非道のさまは先天的問題なのか後天的問題なのか。
数年かけて勉強と思考を重ね、私としては今のところ、「加害者らはおそらく『自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)』を患っているのだろう」との考えに落ち着いている。

ときおり心理学関連、精神病理学関連の本で勉強するが、また、ネット上のDV・モラハラ被害者の体験談を読むこともある。そんな作業中に先日、興味深いサイトを見つけた。サイト名は 【モラハラ資料・彼らの偽りの明るさは一人の犠牲者の上に成り立っている】 と言うらしい。私にはこのサイトの仕組みがよく分からないのだが、どうやら「多くの人による体験談のようなもの」と「サイト作成者による解説やコラム」と「研究者の考えの紹介」が混在し掲載されているように見える。
実のところ私はこのサイト内の数ページを読んだに過ぎないのだ。が、今現在まさに被害に遭われているかたには是非多くのページを読んでほしいと感じたほど、モラル・ハラスメント被害者にとって有益な情報に満ちていると思う。極限まで追いつめられている被害者のかたにおかれては、加害者についてのドライな分析や、他の被害者の体験談を読めば、もしかしたら今後の自身の道筋について答えが見つけやすくなるかも知れない。
そして加えて、被害者へ私から強く言いたいことは、「この問題に関して、あなたは何ら悪くない」ということ。あなたは悪くない。そして、あなたは幸福になる権利をいつなんどきにも無限に有しているのだ。

そういえば、これまでかなり口を酸っぱく繰り返してきたように、善悪二元論は成立し得ないと私は考えている。この世に明確な悪人も善人も存しない。しかし、ある瞬間に於けるある問題に関して、“『悪』側に寄っている人間”または“『善』の要素がより多い人間”というものは明確に存在する。
自己愛性パーソナリティ障害を持つ人物は、深く関わらず表面的に付き合っている分には非常に魅力的であることも多い。一部の人から熱狂的賞賛を受けるような大業をなす場合もあるが、このとき、件の人物によって被害をうけている者の不幸は計り知れない。つまり、「被害を受けるのは最も身近な弱者のみであり、『そこに虐待・モラハラ・DVが実在すること』を知っているのも被害者のみ、『加害者の真の残虐性』を知っているのも被害者のみ。そして被害者は、周辺人物がこぞって加害者を賞賛している様子を、日々、目の当たりにさせられる」という恐ろしい事態が起こっているのである。
さらに、はたから事態を表面的に眺めているだけの人々からすれば、なんと被害者のほうが『悪』に見えることもあるという、現実と乖離した“とんでもない図式”すら生まれやすい。その誤解に付随して、「加害者の周辺人物」が被害者を攻撃することもまま起こるのだから、まさに悲劇だ。認知的不協和、という言葉を、今こそ思い出してみて欲しいと思う。
参考➤「なぜモラハラに気づかないのか」

歴史に名を遺した英雄や偉人・文化人にしても、たとえば「おそらく自己愛性パーソナリティ障害だったのだろう」「おそらくサイコパス」「おそらく○○(精神疾患や人格障害etc)」などと、のちに分析される者は多いと思う。確かに、突出した偉業をなすには、ある種の狂気が必要であることも多いのかも知れない。しかしその人物のなした偉業の輝きによって、その者が身近の弱者を不幸にした罪が消えるわけではないだろう。さらにしかしながら、遠くから見ているだけの人々にとっては、その人物の活動によって幸福を得ることも少なからずあるのだろうから・・・
ひとりが犠牲になることによって他の多くの人々が救われる場合、そのひとりは黙って死んでいくべきなのだろうか? しかしその犠牲者は、なにも自ら生贄になりたいと申し出たわけでもないのに? もしかしたら騙されて人柱にされたのかも知れないのに?
答えは、一体どこにある?

ぽつりと思うのには、「おそらく今の加害者は、過去において何らかの事象の被害者だったのだろう。しかし負の連鎖を止めるためには、今の加害者が今の罪を認め償い、生まれ変わるしかないだろう」と。

このページも興味深かった➤「佐村河内守氏と自己愛性人格障害と職場モラハラについて

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