afterword

「顔のない独裁者」あとがき 

 日本が終わりの見えない不況に陥ってから随分と長い時が過ぎ、その間、多くの悲劇が起き続けたとも聞く。そういった中、世界を席巻しつつある所謂「新自由主義」やグローバリズムが、いかに人間らしい暮らしを破壊する危険性を孕んだ思想であるか、この点をデフォルメし、エンターテインメントとして世に訴えかける。それが、今回の私のなすべき仕事だった。
 学者でないどころか政治経済の専門家でもない私に、啓蒙の意を強く含む作品を書く機会が巡って来ようとは、三年前までは夢にも思っていなかった。本書は経済評論家の三橋貴明先生による企画のため、無論、政治経済の問題をメイン・イシューとして筆を進めた。しかし、私が個人的に描きたかったのは、ひたすら人々の苦悩のありようだった。
 主人公の秋川進は自由革命時、その年齢は19歳だ。本来であれば青春を謳歌し、人生でも素晴らしく充実した日々を持てるかも知れない、十代後半から二十代前半の日々。その時期を彼はレジスタンス活動に捧げ、男としての喜びまで完全に失って過ごしたのだ。それが果たして、幸福と言えるのだろうか。
 子を持たない私にとって、作品は私の子供も同然だ。作品のみならず、作品の登場人物も私の子供であり、彼らを実際に生きている者のように深く愛している。彼らには幸福へ向かう道筋が無数に用意されていたのだ、しかし、様々の外的あるいは内的な要因により、不幸に向かって突き進んでいく。無論、彼ら自身に罪はあろう、しかしもしも違う時代に、違う境遇に生れ落ちていたならば、人並みの幸福を享受し、普通の生をまっとうしていたかも知れない。
 人が破滅に陥っていくことは、それは悲劇である。傍から見ている者にとっては、何故そのような誤った道を敢えて選択するのかと、歯噛みすることも多い。が、誰も必死で生きているのだ。どの個体も、おのずから不幸になろうと考えてその運命を選び取ったわけではない。皆、幸福になりたかったのだ。
 このたび主要登場人物について、少なからぬ心的外傷を抱えている点をクローズ・アップして書かせてもらった。特に、多感な男女にとってエディプス・コンプレックスをいかに乗り越えるかという問題である。このコンプレックスの存在が一部心理学者によるファンタジーであるか否かについては語らず、今はただ本作の材料のひとつとして扱ったことのみ取り上げたい。
 駒ヶ根の狂気の原因とは、非常に乱暴に論じてしまえば、“父の悪夢の乗り越え”、この一点に絞られるかも知れない。暴力によって妻や子を支配する男を見て育ち、世の中への恨みを蓄積させていった少年。貧しさと歪な家族形態に起因する精神的重圧により、彼は他者とまともな人間関係を築くことができない。そこに手を差し伸べたのが、なお子だった。彼女は駒ヶ根にとって恋人であり、母であり、不可侵の天使でもあった。過去に母を救えなかったトラウマを克服するために、母の姿をなお子に投影し、代替物として彼女を救いたかった面も多分にあるだろう。しかし同時に、駒ヶ根の持つ世間への劣等感を必要以上に刺激してしまうのもまた、なお子という存在だった。なお子は精神的にも物理的にも恵まれて育ったからだ。それがますます、駒ヶ根の狂気を深めていく。
 進にとって乗り越えなければならなかった壁とは、端的に性的不能の劣等感だ。これは運命の恋人・みらいの登場によって容易く解きほぐされた。私は進とみらいの奥羽の日々が羨ましくてならない。一生の内にこれほど濃密な恋を体験できる人というのも、少ないのではなかろうか。ましてや運命の恋人から「あなたは私の子供だ」と言われる。言われた進も、またそう宣したみらいも、同時に稀有な幸福の感覚を体験したことと思う。しかし、ボニー&クライドも同様だったが、心の猛るままに青春を過ごした若者がいざ悩みを克服し普通の幸せを願っても、それまで重ねた罪が新たな人生の門出を邪魔するものなのだ。
 さて、みらいである。みらいの抱える心的外傷とは、まずは父を殺されたこと、そして、その父を殺した犯罪者が世間では救世主として崇め奉られており、しかも自分はその虚像の神聖化に加担して生きている、という苦悩だ。ましてや、その犯罪者が自身の恋人でもあり、彼のさらなる犯罪を食い止めるために人知れず工作活動に邁進すると言うのだから、これは根深い。私では、彼女を救う手だてを思いつくことは不可能だ。いや、本作においては他の登場人物についても一様に救うことができなかったのだが、その中でも特にみらいの懊悩は救いようがないものだった。願わくは、これからの人生を優しい人のみに囲まれて、傷を癒すことに使って欲しい。
 生きることは、得てして悲劇である。私にしても自身の人生を振り返ってみて、正しかった選択を思い出すことなど至難の業だ。かえって、よくもこれだけ多くの挫折を繰り返しながらこの齢まで生きて来られたものだと、我ながら驚くほどである。「人はどんな境遇にあっても、やはり生きて行かねばならない」。ときに残酷にも聞こえるこの台詞が、苦労を重ねれば重ねるほど、より深い意味を持って私に迫ってくる。そう、私たちは、どんな不遇の中にあってもとにかく生き延びて、幸福の時を迎えるために歩を進めなければならないのだ。今すぐに100点を目指すのではない。今日50点ならば明日の51点をめざし、もしも明日が49点になってしまったなら、また明後日の50点を目指す。それが、生きる、ということなのだと思う。
 だから、死なないのだ。死ななければ、いつか何かが見えるかも知れない。無論、生きてしまったことで、明日に最悪の不幸を見る運命になるのかも知れない、しかしそれでも、私たちは自分に言い聞かせなければならない、死ぬな、一秒でも長く生きよ、と。
 さてここまで語ったことと矛盾するようにも聞こえるだろうが、本書においては、進は必ず死ななければならなかった。この仕事を頂いたとき、先ずもって決めたことが、「主人公である進を殉死させよう」、という点だった。彼がどう生きたかよりも、どう死んだかによって、不朽の英雄として民の記憶に刻まれるだろうと考えたからだ。進は死に、駒ヶ根は生き、しかし両者ともに不幸の道筋へ迷い込み、最後まで救われることはなかった。十字架を背負い生きるか、十字架に掛けられ絶命するか。罪を償っていることに変わりはないが、果たしてどちらの方がより不幸であるだろうか。永遠の命題にも見える。
 ただ物語はあくまで物語だ。小説家ではない私個人としては、進が死んだことが残念でならない。できるならば“現実世界の進”については死んでほしくない、と強く思う。伝説になどならなくていい、歴史に名など残さなくていい。ただ、生き、そして、至って当たり前の小さな幸福を見つけて欲しいと、心から願っている。

recent entry

afterword titles

monthly archive

© Ren Sakaki. All Rights Reserved.